<個展について・アゴラ寄稿(2003年) >


月並みだけれど、去年「千と千尋の神隠し」を、おりよく泊まったホテルのレンタルビデオでみて非常に感動した。私の中で間違いなく去年みた映画のナンバーワンだった。その後、テレビでもう一度冷静に観た時、普段自分達が失っているものを千尋がもっている人間として描かれていることに新ためて気がついた。
千尋は金にふりむかない。自分の信じたものを疑わない(自分を疑わない)。権力をこわがらない。・・・ふと、ふりかえればお金は欲しいなーと思うし、単純に信じて渡っていけないのが世の中だし、権力も無視できないしというのが、現実としてぱっくり口をあけている。でも、素直に感動できるのはなんでだろう?もちろん、素晴らしい物語であるからでもあるのだけれど、人間、やっぱり心のなかにいつまでもとっても純粋な部分をもちつづけているからだという気がする。
でも、小学生からいや、幼児から大人まで、私達はとても忙しい時代に生きてしまっている。昔、記事で、外国人の道案内で現地のインディアンがあまりに早く(彼等にしてはせかされて)何日も歩いてしまったので、「心が追い付いてくるのを待つ必要がある」とある日がんとして動かずに「心が追い付く」のを待つことになった、とかいてあったのをたいそう印象的によんだことがあったけれど、現代のわたしたちにとって、実はちょっとたまに「心をおいつかせる」のが必要なんじゃないか。ふと、ふーっと自分が元気かな?と心のなかの痛いくらい純粋な部分をいたわってあげる。人によっていろんなやりかたがあるだろうけれど、今回の個展でわずかでもそんな部分をになえたらと思っている。
今回の個展のテーマは「癒しの抱擁(いやしのほうよう)〜送られた心・言葉」。様々な作品のなかに、私が出会った人々から得られた、心に触れ合えたと思えた言葉を実際に文字としても書き込みたいと思っている。生きているのはなかなかしんどくて、なんでこんなことばかり私に起こるのだろう?としょげかえってしまうこともたくさんあるけれど、ごく日常で会う人々が心の底から響いてくる言葉を吐いてくれることがある。それは歴史には残ったりしない水上の泡のようなものだけれど、でも、空に浮かぶ美しい雲を残しておけないように、はかない中に宝石のような美しさがある気がする。その中の温かさを取り出したい。
イベント予定
6月28日(土曜) 5時より
5分ほど、プロのダンサー(2人)によるダンス(個展テーマによる)。会場とダンスのコラボレーションをお楽しみください。その後軽いオープニングパ−ティー、7時まで。ダンスに興味のある人、ダンス発表後、ダンサーと話もできる!お二人とも、とっても元気でキュート。話すと元気がもらえそう。また、いろいろな人にあってみたいならこの日がおすすめ。

7月 5日(土曜) 5時より
15分ほど、ゆったりと音楽をききながら、門間ときていただいた方と、言葉やもってきていただいたものなど(大切な、思い出の、など)でキャッチボール。その後、その場でそれをもとに制作します。コラボレートもありかも。つくった過程、作品は私のホームページなどで公開。きてくれた人たちが持っている大切なメッセージを共有したい。伝えたい。

7月12日(土曜) 5時より
15分ほど、弥栄高校生有志によるアートパフォーマンス、「アートライブ」ダイジェスト編。 5時より15分ほど。その後軽いパーティー。高校どうしよう?と思っている中学生とか、パーティーで気軽に高校生と話してみませんか?また、地元の方々、観にきていただけたら、「今時の高校生はやるときにはやる!」ときっと元気になっていただけるはず。

6月25日(水曜)7月2日(水曜)7月9日(水曜) 5時より
1時間ほど、会場内スライドで、門間の体験してきたフィジーの素晴らしい夕焼けを共有したい(加工 米山肇)。
お茶、ビールをのみつつ、普段気がつかない時間を味わいませんか?

画廊というものは、難しい顔をして、作品をながめ、なにか難しいことをいわなくちゃいけない、と構えるような印象になってしまっているのはいつからだろう?私は画廊を「場」としてとらえたい。社会からしたら、美術で何になるの?というところがあるかもしれない。でも、先ほどのインディアンのように自己の「心」を純粋におえる「場」として生産的であり得ると思っている。
そしてそれは人間にとって生きていく根っこの力になるものだと信じている。

実は、この時期に 6月の個展を語ることは、わたしにとってとても難しい。でも、それは 6月になっても難しいには変わりないかもしれない。ひとついえることは、多分、もう少し自分とそれをとりまく世界が自分の眼で、見えてきているだろう、相変わらずそうしようと努力しているだろう、ということ。
個展に思い巡らせている間、新ためてふりかえってみると、わたしの気になるそれぞれの作家の作品は、驚くほど私的であり、かつ普遍的であり、しっかりと自分なりの社会への発信のスタンスをもっている。わかりやすいところでいうと、奈良美智、村上隆、岡本太郎、川俣正、安藤忠雄など。(ただし、気になる作家と好きな作家はすべてリンクするわけではなく)
アーティスト、または、アート、またはなんでも構わないのだけれども、自分の独自性を認めて生きていくことは難しい。自分を探っていくと、自分だけの感性というものがあるだろう、ということは見えてくる。でも、困ったことに、それを求めていこうとすると、まわりのお手本は全て役にたたなくなってくる。自分の感性、といっても、それはひとりよがり、ということではなく、社会とのユニークなつながり、といえばよいのか。
それは自分にしかおそらく判らなく、しかし、手がかりや師はそこら中にあり、どう掴んでいけばいいのか耳をすませるしかない。社会とのかかわり、どうかかわっていくのかが、とわれている。
今回、自分の深みの深みまで、すーっとおりていって心の中で一番愛すはずのものがねむっているそのところへ勇気をもって踏み込んで、それを得るために自分と向かい合いたいと思っている。そこにさらに大きな突破口があると。
なぜ、そこまで追求してかなければならないと思うのか。そこに独り一人の、独自性が見出せる可能性があると感じるから。実感として。その独自性を感じることによる、自由を感じ取れる可能性が見出せるから。実感として。
それを俗っぽくいえば、「愛」というかもしれない。「愛とはすべての価値をみとめること」
自分のすべてを認め、なにもないところから始めたいと思っている。何もないからこそ、生まれてくるエネルギーもある感じがする。生きているこの今の時間を自分で味わえればいい、共にわかちあえればいい。
これを読んでくれた、すべての人に感謝し、幸せをいのりつつ。

執筆トップに戻る